宮原操車場
2006/06/12 UP
今回は旅ではなくて思いっきり地元でのお話。(笑) 私が生まれ育った実家があったあたりは非常に交通の便がよかった。半径2キロ以内に新大阪駅と 阪急電鉄宝塚線三国駅、大阪市営地下鉄御堂筋線東三国駅、国道176号線があり、大阪梅田までは 自宅の玄関からおよそ20分で行くことができる。さらに大阪国際空港へも小学生がみんなで自転車で 遊びに行ける程度の距離だった。自転車好きの私だから行けるってわけじゃないですよ。(笑) そんな環境だったのに加えて、私の父がよく電車を見に連れて行ってくれたので、小学校1年生の 頃には立派な鉄道ファンに。3年生の頃には一眼レフを持って鉄道写真を撮るようになった。 実家から自転車で10分もかからないところに宮原操車場と言うJR(当時は国鉄)の大きな 車両基地がある。旅客列車の車両基地なので操車場内は私にとってはそれはもう宝の山。(笑) 小学校低学年の頃は父に連れられて操車場の列車を見に行き、車庫の端の方に停まっている 電気機関車に登ったりして遊んでいた。本当は立ち入り禁止のはずだが、列車が出入りする ようなところでもなく、また当時はフェンスも何もなかったので少しくらいはいいだろうって 感じ。もちろん国鉄職員に見られても注意されたりすることもなかった。(大人が一緒だから) 小学校高学年になると友達同士で自転車に乗って遊びに行くように。それはもう何回行ったか わからないくらい定番の遊び場、大阪駅を起点、終点として運行されている特急や急行列車が たくさんこの操車場へ出入りするので、操車場への入口の線路わきにいると、憧れの列車が ひっきりなしに出入りしている。 日本海・雷鳥・あかつき・白鳥・しなの・・・等の特急列車、そして立山・比叡・銀河・きたぐに・・・ 等の急行列車、一日そこにいても飽きない。(^-^) 小学生だった私にとってはどれも乗る事は夢のような話で、いつも羨望のまなざしでそれらの 列車を見たり、写真を撮ったり。「いつか乗りたいなぁ・・・」 小学校高学年になってくると結構やんちゃな遊びもするようになるもんで。(笑) それから 中学時代にかけての私や友達の数々のイタズラ話を聞いたらきっとみなさん 「(゜ロ゜)ギョェ それってちょっと・・・」 なんて思うんだろうなぁ。 ここではちょっと書けないよぅ。(;^_^A アセアセ 当時の国鉄の みなさん、ゴメンナサイ。m(__)m たくさん旅行に行って切符代たくさ〜ん払ってるんで 許して下さい。m(。−_−。)mス・スイマセーン ってそんな問題じゃないってね。(;^_^A アセアセ どうしても聞いてみたい人は直接会った時にでも。(笑) いつも見送ってばかりの憧れの列車、初めて乗ることができたのは急行だったけど 小学校6年生の時。(その時の話はこちら) そりゃぁ嬉しかったよ〜 (^-^) でも学生の間はやっぱり貧乏だったので、宮原操車場に 出入りしていた特急なんかに初めて乗ったのは就職するころからかなぁ。 結構な料金がかかる寝台特急の「日本海」、羨望のまなざしで眺め続けて十数年、25歳の 時に初めて乗ったよ。大阪から函館まで全区間。寝台車独特の雰囲気に浸りながら、 子供時代を思い出していた。 この宮原操車場、私の父が子供の頃もよくそこへ汽車(電車ではないんよね)を見に 行っていたそうで。ちなみに今はなきROOKIE実家は昭和21年から平成14年まで 50年以上もROOKIE家が住んでいた。うちのボン達に宮原操車場で遊ばせてあげられ なくて残念。もう実家も引っ越して昔の場所にはないけど、今度帰省した時にでも 連れて行ってあげようかな。でも時代がだいぶ違うので、フェンスもなしで簡単に入れる・・・ ってふうには行かないだろうなぁ。 ROOKIEマメ知識・・・ 国鉄と言うのは略称で本当は日本国有鉄道って言う名前やったんよ。知ってました? 特急と言うのも略称で本来の呼称は「特別急行」。最近は駅のアナウンスも機械による 自動音声がほとんどですが、駅員さんがマイクで列車案内をしていたころは、ベテランの 駅員さんなんかは、「次にまいりますのは、特別急行列車〜 雷鳥7号・・・」なんて 言ってたもんです。 もひとつ、私がなじみの阪急電鉄、私が幼稚園に入るころまでは 「京阪神急行電鉄株式会社」でした。それを省略して「阪急電鉄」に。 ではでは。(笑) |