古き良き時代
2002/3/20up


 僕は今年33歳になる。

一人で旅行を始めたのが12歳の時だからもう20年以上前になるのか。

これだけ年月が過ぎていると昔話をするに十分足りるほどの時代の変化を感じられる。

20年前と今を比べてみると・・・

まず当時はJRではなくて国鉄時代。毎年膨大な額の赤字を積み重ねていた時代。

それだけに今から思うと無駄が多いというか、旅行者であった僕にとってはありがたいことが

多かった。たとえば客が少ない列車でも長大編成で走らせているのでいつも一人で4人分の

座席を確保できていた。

今では編成は必要最小限の短さになり、繁忙期は増結するという具合。



 国鉄職員の数も今のJRと比べてみるとかなり多かったであろう。

地方の小さな小さな駅にも駅舎があって駅員さんがいた。

各駅での転轍機(ポイント)捜査はそこの駅員さんがホームの一角にある操作室で

巨大な鉄製のハンドルを「ガチャン」と引いたり押したりして駅構内のポイントと信号を操作

していた。

今はどうだろう、ポイントと信号はすべて遠隔操作で要所要所での集中管理になっている。

人間の手がかからない自動操作になっている。



 タブレットと言うのをご存じだろうか?

今でも地方へ行けば単線(上り列車と下り列車が同じレールの上を走る)区間はたくさんある。

1本の軌道上を上りと下りで共用しているのだから、同じ区間に両方の列車がいるなんてことは

絶対にありえない。ただ、日本でもこれまでに何度か不幸にも正面衝突事故が起きたことは

あったが。最近では信楽線などがそう。

話を戻して、タブレットと言うのは鉄道の通行手形みたいなもんで、一つの区間には一つしか

タブレットがない。

たとえば大阪駅〜京都駅を一つの区間と定めた場合、その区間にただ一つのタブレットを

発行し、そのタブレットを持っている列車のみが上りでも下りでもその区間に入ることができる

というわけ。

一区間に一タブレットが大原則なので同一区間内で上りと下りの両列車が走っている

ということはありえない。

そうやって単線区間での正面衝突事故を防いでいた。

結構原始的な方法である。



 上記の例では大阪と京都の間を一区間としたが、実際はもう少し細かく区切られていた。

たとえば大阪〜吹田で一区間、吹田〜茨木で一区間、茨木〜高槻で一区間、高槻〜長岡京で

一区間そして長岡京〜京都で一区間という風に。(あくまでも例として)

この場合大阪〜京都へ走る列車は5つのタブレットを次々と取得しなければならないことになる。

各駅停車なら駅に停車中にすでに走ってきた区間のタブレットを駅員さんに渡し、変わって

次の区間のタブレットを受け取って発車する。

しかし急行や特急列車だとそう簡単にはいかない。

特急だろうが急行だろうが一区間一タブレットの大原則は必ず守らなければならない。

どうやってタブレットを受け渡ししていたか?

運転士が走行中の列車の窓から受け渡ししていたのである。

これまで走った区間のタブレットを通過しながら駅に渡すのは、駅のホームの一番最初の所に

タブレット受け取り用のスタンドが経っていて運転士が窓からそのスタンドにタブレットを引っかけて

通過していく。

そして通過し終える直前にホームの終端付近に次のタブレットが台にセットしてあるので

運転士が窓から腕を伸ばしてタブレットをキャッチして走り去るのである。

通過しながら受け渡しを行うのであるからかなりのテクニックが必要かと。

もしも運転士が通過時にタブレットを取り損ねたら、停車してでも取りに戻らなければならない。



 タブレットは金属製でかなり頑固な物だが、受け渡しがしやすいように直径50センチくらいの

大きなバンドがついていた。通過しながらタブレットを取る時、ものすごい勢いでタブレットの

本体の部分が列車の側面に当たるので、運転席のすぐ後ろの窓や扉のガラスには

鉄格子がはめられていた。

運転席の真後ろにいる人でタブレットを知らない人は何駅か事にものすごい音で「ガン!!」

と衝撃を感じて不思議に思っていたことだろう。




10年くらい前まではこのタブレット方式、正確には「通票閉塞方式」がまだ見られたが、

今ではすべて自動信号方式に変わってもうタブレットの受け渡しを見ることはできない。

通過列車へのタブレット受け渡しようのスタンドはまだホームに残っているかもしれないが・・・


                                  おしまい。


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