限界に挑戦
2001/12/26up

俺らもやってみよう

 時は1984年12月、私が中学3年生の時のお話。

6年生から中学生の間はずっと鉄道マニアでやってきて、全国くまなく旅行をしていた。

ただ、切符が子供と学割では全然値段が違う、費用捻出の面で長期の旅行には

なかなか行けなくなってきたところへ友達から自転車で行こうとの誘いがあった。

自転車なら交通費はゼロ、自分の足だけでどこでも行ける。

そんな流れで中学3年生からは鉄道マニアから自転車少年への転換期となった。

高校ではすっかり自転車少年のイメージが定着していたほど。

冬休みに入ってまもないころ、友人(通称ブデン)が 

ブデン:俺らの先輩で自転車で鳥取まで行った人がおるらしいで。

ROOKIE:いったい何日かかるんやろう・・・

ブデン:二泊三日で行ったらしいわ。

ROOKIE:俺らもやってみるかぁ。

もう一人の友達もその話しに乗って合計3人で大晦日に出発して鳥取で年越しをすることに

決まった。ちなみに私たちが住んでいたところは大阪市淀川区。



浅い経験しかなくて・・・

 先輩達の記録を塗り替えるべく、また自分達の今までのツーリングの経験から鳥取へは1日で

着けると判断。無謀にも大晦日の夜中の2時に出発することに。

予定通り着けばその日の夕方に鳥取へ着くはず。ちなみに鳥取までの距離は220km。

大晦日の真夜中の国道を3台の自転車がひた走る。神戸駅で小休止、ここまで2時間、

ほぼ予定通りだ。

コースは姫路まで国道2号線をずっと西へ走り、そこから国道29号線を今度は北上するコース。

リーダーのブデンは自分が組んだ計画通りに進むことに力を入れていたが、姫路までの

所要時間が1時間遅れ、それからは当初の計画は気にせずにマイペースで行くことに。

姫路まではちょうど100km、大阪から6時間で行く予定が7時間かかった。姫路まではほぼ

平坦な海沿いの道だが、そこから北上して鳥取までのびている29号線は、中国山脈越えが

あってゆるやかだがずーっと上っている、中国山脈の麓に位置する波賀町のあたりで日が

暮れた。

 当時の僕らはツーリングやアウトドアを始めたばかり、冬の山越えがどんなものかは知ら

なかった。手の保温には軍手を3枚重ねではけば十分暖かいと思って全員軍手で、

それが仇となった。

日が暮れた峠を進んで行くに連れ、雪が目立つように。平家の落ち武者がたくさん逃れて

きたと言う戸倉峠は標高788メートル。そういえば小学校の同級生で平クンってのがいたが

彼の田舎は戸倉地方だと言ってたっけ、なんて思いながら走って行くと雪が降り出した。

吐く息がどこまでも白くのびるほど気温は低い、雪は大雪となり容赦なく降ってくる。

軍手は結局何枚重ねても防水効果はなく、それどころか血行が悪くなってよりいっそう手が

冷える原因となった。

軍手の隙間から雪が溶けてしみて入り、氷点下の気温でそれがまた氷となる。

氷の手袋をして走っているよう、手が痛い、痛い、とてつもなく痛い・・・

道路は完全に凍結していて、何度も転倒した、こいで上るのはあきらめて、押して峠道を

上っていった。そしてようやく峠、「戸倉峠・標高788メートル」の看板で記念写真を撮る。



根性

 幹線国道だというのにほとんど車は走っていない。

峠のトンネルを抜ければ後はずーっと下りだ、鳥取までは50km、下りのことを考えると2時間で

着くはず。カロリーメイトをみんなでわけあってほおばり、いよいよ下り道を走り始めた、

とその時、

 ヤバイッ 凍ってるぞっ!!

自転車で峠を登り切った時の喜びは、これから続く下りをずーっとペダルをこがずに

颯爽と走って行けることにある。それができない・・・

自転車なんてほんとに簡単な骨組みでできているもの、下りで転倒したらもう走れないほど

ダメージを受ける可能性がある、お金ももたず、自転車しか足がない僕らにとってそれだけは

避けなければならない事態、道路凍結のショックは相当なもので、しばらく放心状態だった。

しかしここまできたら進むしかないので、とぼとぼ自転車を押して歩いて進んでいった。

どれくらい押して歩いただろう・・・標高が下がるに連れて道路の凍結状態もよくなり、ようやく

こいで走れるように、しかし今度は上りと違ってそれなりのスピードが出るため、例の軍手3枚

重ねの手が冷え切って痛い、ビニール袋をかぶせてみたりしたが、すぐに破けたりはずれたり

してしまう。

ブレーキを握る指にまったく力が入らないほど痛い、こんなに痛いのは初めてだ・・・

凍傷になったら指を切断しなければならないかも、なんてどこかで聞いたことがあったので、

ジュースの自販機で暖かいコーヒーを買って手を暖める。

凍傷寸前まで冷え切った手で暖かいコーヒーを持つとどうなるか・・・

言葉では表せないほどの激痛が手に走る。それでも凍傷になりたくないために涙をこらえて

缶コーヒーを握りしめる・・・ 「ウーッ イタイ・・・」

缶コーヒーを握って手を暖めたところで焼け石に水、走りだしたらあっという間に凍りの手袋状態。

「なんで俺こんなとこにおるんやろう・・・」なんてほんとに泣きながら走っていた。

とそこでパンク、もうダメだ・・・

ただでさえ痛くてどうにもならない手で、パンク修理なんてやろうと言う気力もない。

途方にくれている俺にブデンが

ブデン : 俺が直したるわ。

軍手3枚重ねはみんな同じ、もちろん手が痛いのもみんな同じ、そんな中俺はもうあきらめて

放心状態のところでのブデンのこの言葉

俺のためにキャンプ用のガスコンロに火を点け、手を暖めるように言ってくれる、

そしてブデンは黙々と俺の自転車のパンク修理をしている。

あのときのブデン、すっげぇかっこよかった

こいつこそが男の中の男やっ!! って思った。



年越しそば

 だんだんと町の灯りが増えてきた、夜8時過ぎに鳥取駅に到着、駅で寝ると言うのが定番で、

この日の夜も鳥取駅の待合室で暖を取る。大阪を出発してから18時間、ほんとに1日で

着いた、今思うとよくやったよ。

大晦日やし、年越しそばを食べようってことで、売店でインスタントのそばを買ってきた。

「緑のたぬき」

トイレで水をくんできて、携帯コンロで沸かす。待合室には他にも人がいたが全然

気にもせず、3人で年越しそばを食べた。 

どっぷりと疲れていたので10時ころに寝る体制に、これまた知識が浅く、というかいい物を

買う財力もなく、夏用のペラペラの寝袋にくるまる。待合室だと他の人もいるし、駅員さんに

追い出される可能性もあるのですでに店が閉まっていた駅ビルのエスカレーターを上がった

真っ暗なところに3人寄り添って寝た。



まだやるか

 よっぽど疲れていたんだろう、(あたりまえだが)翌朝は駅ビルの警備員さんに起こされる

9時前までぐっすり寝ていた。鳥取へ向かった当初の目的は鳥取砂丘で初日の出を見るって

ことだった。

とっくに初日の出は顔をだしている時刻だったが、とりあえず今からでも見に行こうと言うことで

3人して砂丘へ向かう。1時間ほど走ってついた鳥取砂丘は真っ白だった。

砂丘は平坦ではなく、うねりがあって道路からは海が見えない、はるか彼方のうねりを越えて

行かないと海が見えない。その砂丘には70pほどの雪が積もっていた。それを見て俺と

もう一人の友達は

「これは無理やで、俺 もうここでええわ。」

と言うがブデンだけは 「俺は行く」と言って一人砂丘を見えなくなるまで歩いていった。

しばらくして帰ってきたブデンは裸足、真っ赤な足をしていた。「どしてん?」 って聞くと

「スニーカーに雪がしみてきてべちゃべちゃになったから履いてても履かんでも一緒やし

 脱いできた」

どこまでもクレイジーなやつである。



苦境は続く

 1月1日のお昼ころに鳥取を発って大阪へ向かい始めた。一緒に行ったもう一人の友達が

「俺、2日の昼までに帰らんとお年玉もらわれへんねん」

親戚巡りをする家族に同行できなければお年玉がもらえないそう、これは深刻な問題

である。(笑)

行く時と同じペースで帰られたとしたら大阪到着は2日の朝、しかし3人の体力の消耗は

相当である。大丈夫だろうか・・・とりあえず走り続ける。

行く時に凍っていた峠道はさすがに日中のせいか凍ってはいなかった。やはり相当疲れて

いるせいで行く時よりもかなりのスローペース。峠はなんとか日没前に越えることができたが、

日が暮れてからはぐんぐん寒くなってきた。1月1日の夜の国道、ほとんど車はいない。

道路に表示されていた温度計はマイナス6度だった。前にも書いたように手が痛くてたまらない。

国道横のドライブインで長めの休憩を取っていたら、通りがかりの人が、

「今から大阪まで行くんか!! なんちゅうやつらや、もう日も暮れて真っ暗やし、今晩は
 うちの家で泊まっていったらどうや?」

憔悴しきっていた俺は是非ともおじゃましたい、って思っていたブデンも「まぁええんちゃう」

と言っていたが、もう一人が

「お年玉もらえんようになるから早よ帰ろう」

親切な人だったが丁重に断って帰路を急ぐことに。

同じことなので書かないが、帰りも氷の手袋による手の痛さは半端じゃなかった。

姫路まであと20キロほどのところで自動販売機がたくさんならんだ無人のドライブインが

あったのでそこで小休止。

うれしいことにカップヌードルの販売機が。ラーメンが食べたいからってわけではなく、

お湯を出してそれで手を暖めようってこと。カップヌードルのお湯ってカップを入れないとボタンを

押しても出てこないので、割り箸を隙間からつっこんでカップのセンサーを押し、自分のコップに

お湯を入れる。

みんなそれで手を暖め、冷えたらまたお湯を入れて、繰り返しているうちに販売機のお湯を

使い切ってしまった。

夜の10時くらいだったが、まだ晩ご飯を食べていないので、手持ちの米を炊いてレトルトの

カレーでみんなでカレーライスを食べよう。ここでもまた経験のなさが祟った、ガスコンロと

言うのはあまり気温が低いと火力が出ない、へたすりゃ火もつかない、自販機の前の屋外

(建物はない)でマイナス6度、どれだけコンロにかけていても吹きこぼれない、

ご飯を炊きあげるだけの火力がない。

しかたなくシンがいっぱい残ったご飯に生ぬるいカレーをかけてガリガリとかじりながら食べる。

暖かいカレーライスが食べたいよぅ。

体力は完全に消耗しきって、疲れもピーク、食べた後あっという間に睡魔が襲ってくる。

マイナス6度の屋外でも、限界を超えた体力を消耗しきった時の睡魔のほうが強かった。

自販機の前に寝袋もなしでそのまま転がって一瞬のうちに眠りについた。

もうどうなってもいいからとりあえず眠らせてくれ・・・そういう思いだった。

するとブデンが

ブデン : おいっ そんなとこで寝たら地面に体温奪われて死んでまうぞっ!!起きろっ!!
寝たらあかん、起きろ!!」
 

まったく動かないROOKIE、ヤバイと思ったブデンは俺を引きずって電話ボックスの中に

放り込んだ。後で聞いた話だが、横になって寝ているよりも座って寝ているほうが地面に

触れる面積が少なくて済む。

そう判断してのことだったらしい。

そのまま自販機の前で眠ってしまって時間が経っていれば・・・危なかったかもしれない。



ボロボロ

 姫路に着いたのは夜中の1時、駅の待合室で朝まで寝ようと思ったけど、例によって帰宅を

急がなければならない、夜中1時ならたとえ多少時間がかかっても午前中には大阪に着く、

結局姫路の待合室では3時間ほど休憩して、午前4時に走り出した。

そして日が昇る。行く時は7時間で走った大阪〜姫路間だが、帰りは10時間かかった。

走るペースが遅いのに加えて、休憩の回数も多かったからだ。

午後2時にようやく自宅に帰ったROOKIEはそのすさまじさを家族に話す。

凍傷寸前(あるいは軽度にかかっていたかも)であった指の感覚はまだなおらず、

すぐさま洗面器にお湯を入れて手を暖めていた。

感覚が戻るまで、2週間くらい毎日お湯に手をつけていただろうか。

幸いにして今はなんの後遺症もなく指は動いている。



自分の人生のなかで、寒さのほうでは一番辛い思いをしたときの話。

未だにこの時よりも辛い寒さを経験したことがない。



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