主を亡くした家  2001/4/2

今日は弟の誕生日なんです。4/2生まれってその学年では一番先に生まれてるって日。

私が今年32歳、(まだ31)弟は2つ下なんで30歳・・・のはずでした。

過去形なのは、そう 30を迎える前にそこで時間が止まってしまったから。

1999年11月24日 23:20 バイクの交通事故で帰らぬ人となってしまったのです。

今ここに弟のことをこうして書いているのは、時間の流れとともに風化させたくないから。

いつまでも自分の中ではその存在はあり続けてほしい。






私は4人兄弟です。姉がいて、私で、2つ下の弟、8つ下の弟となります。

末っ子とは年が離れているのもあってあんまり一緒に遊ぶことはなかったですが、

2つ下の弟とはいつも一緒でした。

不思議なのは同じ兄弟、もちろん同じ親に育てられているのになぜかしら性格が全然違う。

姉と末っ子は家にこもるタイプ、私と次男はいつも家にはよりつかず出歩いてました。

いつも私がやることをマネしていました。小さい頃は2つ違いでも体格、体力差が大きい

のですが、私の友達に混じって一生懸命着いてきていました。

自転車で日本中を走り回ったり、高校ではいくつもクラブを掛け持ちしたり。

高校では私がとても長距離を自転車で通っていたのですが、弟はうちの学校のさらに

山の上にある学校まで自転車で通っていました。よく併走して走ったもんです。

趣味や考え方がほんとによく似ていたので、兄弟の中でも一番親しかった。






私の実家は戦前から建っている長屋の借家なんでとっても狭かったんです。

そんな中で7人家族で住んでいたんで、家には落ち着くところがありませんでした。

そのせいか私も高校を出てすぐに家を出ました。弟はなんと高校在学中に家を出ました。

男兄弟なんて一度家を出るとなかなか実家にはよりつかないものです。

うちの場合は特に狭いというのもあって。

盆や正月に家族が集まるということもうちではなかったので私が高校を卒業した後は

めった会うことがありませんでした。年に3,4回くらいか。

その後私は大学へ進学し下宿、弟は公務員に就職し一人暮らし。

ますます会う機会が減っていきました。






私がまだ学生をやっている時に久々に会うことがあって、

「おぅ たまには一緒に飲みに行くかぁ」って私が声をかけて弟の家の近くに飲みに

行ったことがありました。初めて兄弟で酒を飲んだ日でした。

その時弟が

「学生から金をもらうわけにはいかんから今日は俺が払っとく」と・・・

「すまんの〜」

と情けないアニキ。






時は流れ、私は富山に就職し弟と会うのも年に1回あるかないかと言うくらいになっていました。

1998年の11月に弟が家を買ったと親から連絡が入ったんですが、

「あいつなかなかやるの〜 まぁそのうち見に行くこともあるやろう」

ぐらいにしか思っていませんでした。

そして私は結婚し、子供が生まれてその子を連れて実家に帰った時、たまたま弟が

実家に来ていました。

「おおっ 久しぶりやなぁ 元気か?」

それが最後となったのです。






1999年11月24日

仕事の帰りに夜遅くまで遊んでいた弟はバイクに乗って自宅まで帰るところでした。

その時死に神に招かれたのか、スピード出し過ぎの上におそらく居眠りをしたのかと

思われます、ノーブレーキでカーブの先のガードレールと照明柱にぶつかり即死でした。

その時私は岐阜県の温泉で有名な下呂というところで仕事をしていました。

毎朝現場事務所でたき火を囲ってミーティングから始まります。

その時一本の電話がなり、責任者が電話に出たあとj現場事務所から出てきて私が呼ばれました。

そして小さな声で

「おまえ、びっくりしたらあかんぞ」

その一言で訃報であるという予感がしました。ただ誰やろう?もしかして妻か?あるいは子供か?

と思ってその次の言葉を聞いたら

「弟さん亡くなったそうや」

あんなに元気だった弟が、自分にも負けず劣らずパワフルな弟が・・・

事実は事実です。決して消し去ることはできません。その後すぐに一人帰ることになりました。

富山の自宅まで3時間半、一人で車を運転しながら

「まぁ4人兄弟で男3人やから一人くらい事故で欠けることもあるわなぁ。」

突然やってきた弟の訃報がまだ実感できていないって感じでした。

会社に戻って、自宅に戻っても涙は出ませんでした。「まぁ仕方がない。」としか思いませんでした。






妻と子供と一緒に実家へ向かいました。

実家へたどりついて、2年ぶりに会った弟は綺麗に化粧して箱の中に入っていました。

その堅く閉ざされた目は二度と開くことはありませんでした。

「ほんとに死んだんか?」と疑ってしまいたくなるような安らかな顔。

やがて葬儀が始まり、たくさんの人が訪れました。焼香をすませたみなさまに挨拶

するためにみなさんのほうを向いて私は立っていました。

「長男だから、しっかりしなければ」と歯を食いしばってじっと立っていました。

高校の時に家を出て、ほとんど会うこともなく年月が過ぎ、気が付いたら兄弟そろって

大酒のみになっていたのに一緒に飲んだのはたったの一回、しかも弟のおごりで。

「『今度飲むときは俺がおごったるからな』って言うとったのになんで俺におごらせずに

行くねん!! もうちょっと待っとかんかい!!」

緊張の糸がプツンと切れた瞬間、大粒の涙が それはもうあふれて止まりませんでした。

弟が好きだったビールのしずくを唇に垂らして、これでお別れです。






葬儀が終わって。

弟が買ったと言う家に行ってみました。買ってから1年が経つというのにまだ

一度も行ったことがなかったのです。

初めてみた弟の家。それは立派な家でした。オランダ風の外観を持つ4LDKの家。

2台分の車庫には車がなく、バイクだけで使っていたようです。

まだ新築の木の香りがしそうなほど真新しさが残る家。

その時みつかった家を購入するときの書類を見たら弟の名義になったのが

1998/11/24、そして弟が死んだのが1999/11/24。

なんという偶然でしょう。ほんとにちょうど1年だけの住まいでした。

「こんな広い家に一人で住んでいたんや、寂しかったやろうなぁ」と言うと

一緒に来ていた弟の職場の方が

「弟さんはこう言ってました 『将来は親を呼んで一緒に住むんや、

だから手すりもつけたしバリアフリーにしてん』と。」

「大阪離れて富山で好きに暮らしている兄貴じゃ頼りなかったんやろうなぁ。

ほんとに申し訳ない。」 涙が止まりません・・・






10月大阪オフ会。

たくさんの人が集まってくれました。遠方から来てくれた人もいました。

1次会、2次会と終えて、残ったメンバーで弟の家に来ました。

「うちの弟なぁ にぎやかなん好きやねん、みんなでパーッとやって楽しいところを見せてやろうやん」

オフ会は2泊3日延々と続き、いろんな人が入れ替わりでやってきてそれはそれはにぎやかな

ものになりました。弟もきっと喜んで一緒に飲んでいたことでしょう。



またいつかにぎやかな宴会を弟の家でしたいです。

「おぅ 一緒に飲むぞっ」

終わり


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