海外で一年を過ごす・・・ そんなの夢みたいな話やなぁ。 俺にはそんなことできないや。 私もそんなの無理だわぁ。 ・・・とみなさんそう思うかたも多いことでしょう。 でもちょっと待って!! それは違います。 可能性は誰にでもあるはず。 たったの一歩を踏み出すかそれともとどまるかだけの違いなんです。 このホームページを見て、海外長期渡航を思い立った人がもしいるとすれば、 それは私にとっての最高の喜びです。たったの一歩なんです・・・ ROOKIEってすごいやつ??ホームステイに英語学校、バイクで一周に現地でアルバイト・・・ こんな経験の持ち主ってやっぱすごいやつなんだろうなぁ。 もともとガッツがあるやつなんだろうなぁ・・・ ってもし思っている人がいるとすれば・・・ 私のことをよく知っている人ならこう反論するでしょう。 ROOKIEってそんなにすごいやつか?? その答えは私自身が覚えてきた英語で優雅にお答えします。 答えは NO !! こんなやつです 私は4人兄弟の長男として大阪で生まれ育ちました。 実家は戦前から建っているふすまもまともに閉まらないほど傾いた長屋でもちろん借家、 父は小さな小さな町工場の一従業員、サラリーマンです。 両親と祖母、それに兄弟4人がせまいせまい長屋でひしめき合って生活してました。 もちろん自分の部屋なんてありませんでしたし、末っ子などは自分の机すらなく 風呂敷に教科書を包んで時間割をそろえていたくらい。 小学校、中学校、高校とこれと言って目立てるような特技もなく 勉強ができたわけでもないし、スポーツ万能だったわけでもありません。 どこにでもいるようなごく普通の少年として年月を重ねてきたんです。 きっかけ 大学に入る前に遊びすぎて、2年浪人した以外はごく普通の学生生活を送ってきました。 22歳の時の春、高校時代の友人に会う機会があっていろいろ話をしていると、 「○○君はこの前アメリカ旅行してきたらしいで」とか 「◎◎チャン、休み中にスウェーデンやら北欧をまわってきたんやって」 その時私は思ったんです。 「高校時代にはおとなしくて、ごく普通の一生徒やったあいつらがそんなにバンバン 海外旅行に行くなんて・・・ 旅行に関してはキャリアはこっちのほうが上や 負けてられへん、一発でかい花火あげるしかない・・・」 海外はおろか、飛行機にすら一度も乗ったことがなかったんですが、 他のヤツにできて俺にできないはずがない!! という強い信念を持って本屋さんへ行きました。 夢から現実へ 海外旅行のブームを反映してか、本屋の一角は留学やらワーキングホリデーやらの本が いっぱい、しかしまだその時点では1年滞在なんて現実にはほど遠く、漠然と夢を持っているだけでした。 そこで一冊の本のキャッチコピーが大きく心を揺さぶったんです。 「人生70年、その70分の1くらい思いっきりやりたいことに使ってもいいんじゃないか??」 体に電流が走りました。 「そうやん、1年くらい海外で遊んでたってたったの70分の1やん」 心はそこで決まったのです。これが 私の踏み出した一歩でした。 資金稼ぎ いろいろ本で調べてみたところ、ワーキングホリデービザを取得するためには60万円以上の 残高証明が必要だとわかりました。1年計画でアルバイトに精を出し、1年後に100万円以上 貯まっていたら渡航しようと自分でルールを作りました。 それからはバイトの鬼と化しました。1.2年で単位をたくさん取得したのもあって、授業の 出席率は激減です。ただ工学部なんで実験など絶対必要なものだけはしっかりと勉強しました。 普段は高速道路の工事の警備員のバイトを夜勤で、昼間はスーパーの野菜の配達をしたり 土日は日雇いの電気設備の点検清掃のバイトとか。 夏休みなど長期休暇に入ると、警備員を昼勤と夜勤両方、8:30〜17:00 まで昼勤に出た後、 21:30〜6:00まで夜勤。またそれ以外に百貨店の事務のバイトも掛け持ちでした。 そして一年間で稼いだ総額は260万円。 学校は自宅近くでしたが、自分の部屋がほしくて下宿していたのもあって仕送りは月に 3万円、光熱費や食費、先輩や後輩達と飲みに行った回数も数知れず、彼女とのデートにも いくらかはかかりましたが、どうにか半分の130万円が残りました。 いよいよ実行へ 3年生が終わる時、学校に休学届けを出しに行きました。 決まりかかっていた研究室も教授に事情を説明しキャンセルしました。 そして残高証明の取得、オーストラリア領事館でのワーキングホリデービザの申請。 このビザを手にした時、一年前は夢だったことがこうやって現実のものとして掴みとる ことができた感動で胸がいっぱい。有森裕子さんじゃないですが自分で自分を誉めてやりたい・・・ ひとつ問題だったのが、渡航後向こうで何をするか?? でした。ただビザを取っただけで 渡航後のことを決めていなかったんです。 同時期にワーキングホリデーで渡航するという友人の紹介で、留学手続きを代行してくれる という事務所にかけこみ、アドバイスを受け、ホームステイの手配と英語学校の入学手続きを してもらいました。 これで渡航後10週間は予定が決まった。それ以降はその間にでも考えればいいだろう。 そして 1993年4月16日 当時国際空港だった伊丹空港から 生まれて初めての飛行機に乗って、生まれて初めての海外へ旅立ったのです。 |