最後の連絡船
2008/03/14 UP

受験で北海道へ

 今からちょうど20年前の1988年3月、私は北海道にいた。高校を卒業したばかりの春休みで

受験のために北海道へ来ていたのだった。1月の共通一次試験、今で言うセンター試験から

始まり、一連の受験期間が続いて大学受験の最後の日程が3月初旬だったか。北海道まで

遠路はるばる受験に行って、試験が終わってそのまますぐに帰ってきたのではもったいないと、

私はそのまま北海道で旅をするつもりだった。

一般的に大阪の人間が受験で北海道へ行くとなると、飛行機で北海道入りする人がほとんど

だったと思う。しかしかなりの鉄道好きだった私は、大阪からまる2日間かけて鉄道で北海道入りし、

そのまま北海道内に20日間も居座りつづけた。(笑)



青函トンネル開業

 1988年3月は北海道にとってはビッグイベントがあった忘れられない時だ。 現在でも世界一長い

トンネルである青函トンネルが開業したのだった。トンネルの全長53,85km 1961年から掘り始め、

1985年まで24年もの歳月をかけて堀抜いた長大トンネルである。本坑開通の3年後、晴れて旅客

営業開始となったのである。



新旧交代の宿命

 北海道と本州の青森を結ぶ交通はそれまでは青函航路が主要ルートで、青森と函館を結ぶ

船便が国鉄(1987年よりJR)と民間航路の2本が運行されていた。距離にして113km。

どちらも所用時間は3時間50分の船旅だった。 国鉄青函連絡船は1908年に運航を開始、

80年の歴史ある連絡船である。出航の時は銅鑼の音が響き、蛍の光が流れる大変情緒ある

シーンが見られた。石川さゆりの歌「津軽海峡冬景色」でも有名である。 3時間50分の船旅は

時間に追われない当時の人々にとっては決して長いものではなかった。

しかし時代は確実に流れていく。青函トンネルが開業し、鉄道で青森と函館が結ばれるように

なった。鉄道ルートは青森〜函館間をかなり大回りしているので距離にして約160kmと

青函航路よりも大幅に長いのだが、距離のハンデを返してもあまりある速度の差で、2時間半で

青森と函館を結ぶダイヤだった。青函トンネルの営業開始と同日に、青函連絡船が廃止される

ことが決まった。新旧交代の運命の日は1988年3月13日だった。



整理券を取るために

 80年も歴史ある連絡船、廃止となるとマニアでなくても一度は乗っておきたいと思うものである。

なかでも廃止となる3月13日の最終便は、80年の歴史の中で本当に最後の最後となる船だ。

青函連絡船の乗客の定員は1100人。そのうち500名は団体ツアー用に旅行会社に、そして

100名は報道関係者に割り当てられ、残りの500名が一般乗客の枠となっていた。

その500名枠に、函館駅で先着順に整理券が配られると言う情報を入手し、私のマニアの血が

どうしても乗りたいと騒ぎ出した。 整理券が配られるのが3月13日当日の午前10時、私は

それよりも20時間も前となる3月12日の午後2時に函館駅へやってきたが、整理券が配られる

場所にはすでに長蛇の列ができていた。パッと見て数え切れないほどの大勢の人。もしかして

すでに遅かったか・・・と不安で仕方がなかったが、私よりも後からもどんどん行列が延びていく

ので、もしかして大丈夫かも・・・と希望を持ってその列に並び続けることにした。

しかし20時間も並ぶと言うのは私の人生史上後にも先にもこの時だけである。(笑)

これほど長時間も並んでいると、自分の前後の人達とはすっかりなじんできて、私は1人だった

寂しさもあってか前後6〜7人の人達と仲良くなった。(^_^)

3月の函館、そりゃぁもうかなり寒い。{{{{(+_+)}}}}寒ううぅ〜 じっと動かずにただひたすら

そこで待つだけなので、時間の流れのなんと遅いこと・・・(*_*)

日が暮れると急激に気温が下がる。行列の先頭の方を見るとまるで浮浪者のごとく

段ボールで豪華な家を造っていた。(笑) あれは暖かそうだなぁ・・・座ったり横になったりも

できるし・・・。先の親しくなった前後の人達とも意見が一致し、私達も段ボールハウスを造る

ことにした。荷物の見張り番として残る人、段ボールを調達しに行く人、みんなの分の食料を

調達しに行く人など手際よく役割を分担。 さて、段ボールをどこで調達するか・・・

幸い函館朝市の市場が近かったので、段ボールは簡単に入手できた。

1時間ほどで立派な段ボールハウスが完成。私達の城だ。(笑) 風をしのげると言うだけでも

大変暖かい。また冷たい地面に直接触れることなく腰を下ろしたり横になったりできると言うのは

とても快適だった。(^_^)



 夜9時頃だったか、とっても嬉しい出来事があった。長時間行列に並んでいる人達への

サービスとして、函館駅の駅員さん達があったかいミソ汁を作って並んでいる人達全員に

配ってくれたのだった。メチャクチャ寒い中をずっと並んでいた私達にとっては、単に体が

温まるとか空腹感が和らぐとかだけではなく、心の温もりと言うのが一番嬉しかった。

JRもなかなかやってくれるじゃん。(^_^)



乗船・そして出航

 3月13日の午前10時を迎える、行列の人達があわただしくなり、みんな一斉に荷物を

片づけ始めた。そして段々と列が前に進んでいく。自分の目の前で整理券が終わり・・・

なんてなったりして・・・不安が収まらない。 段々自分の順番が近づいてくる、あともう少し、

おっ イケルぞっ!! \(^O^)/ヤッター ついに念願の整理券獲得。\(^o^)/バンザーイ

今でも覚えている、私の整理券番号は285番。真ん中よりもやや後ろと言ったところだった。

最終日の最終便である22便の出航時刻は17時。 函館駅でのんびりとその時を待った。

整理券を手に入れた嬉しさで、その後ず〜っと浮かれ気分。出航までの数時間も全然

長くは感じられなかった。



 いよいよ出航の時を迎える。桟橋では自衛隊の音楽隊が津軽海峡冬景色を演奏していた。

私は12歳の時に初めて青函連絡船に乗って以来、何度となく北海道へ旅行し、当時運航

されていた青函連絡船のすべての船に乗船経験があった。

摩周丸、羊蹄丸、八甲田丸、十和田丸、大雪丸、津軽丸、そして貨物専用船から改造され

貨客両用となった石狩丸・檜山丸の合計8隻。ちなみに津軽丸は私が最初に乗った船で、

その直後に廃船となっていた。 

これで最後・・・と思うとこれまでのいろんな思い出が頭に浮かんでくる。初めて乗った

6年生の時は船酔いしてデッキにずっと出ていたなぁ・・・なんて。

普段は乗船客も少な目の青函連絡船だったが、この日の船内は大変賑やかだった。

テレビ局の人らしき大きなテレビカメラを持った人がいっぱい。これだけテレビカメラが

あれば自分もどっかのテレビには写っているだろうなぁ・・・なんて思ったり。(笑)

出航前、船から桟橋へむけて一斉に紙テープが投げられた。船の桟橋側にはそれはもう

隙間なく人が並び、全員が何本も紙テープを投げ、色とりどりの紙テープが船と桟橋を

つないでいた。私が投げた紙テープは桟橋側で、割烹着を着た50歳くらい(に見えた)女性が

その一方を掴み、涙を流して連絡船の最後を惜しみながら見送っていた、その女性のテープの

向こうが私であることがしっかりとわかっていたようで、その人の目はずっとこちらを見つめて

いるように見えた。なんかとても切ない出航だな・・・

いつもの通り銅鑼の音が響き渡る。 そして蛍の光、岸壁を離れる最後の青函連絡船22便、

函館港出航17時、80年の歴史を締めくくる最後の船は羊蹄丸。(下り最終は八甲田丸)

夕暮れの函館の町が遠ざかり、夜の津軽海峡を南へ向かう。海上自衛隊の護衛艦が

しばらく併走した。青森発の最終便である八甲田丸とのすれ違いでお互い汽笛を鳴らし、

定刻の20時50分、青森港へ到着。 80年の歴史に幕を閉じた。


青函トンネル開業・連絡船廃止となった翌日の1988年3月14日の北海道新聞 
(当時私が買って自宅に保管してあったもの)





 青函連絡船の最後を飾った羊蹄丸は、現在東京の船の科学館で内装・外装ともに整備

しなおし、多目的スペースとして一般公開されている。


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